新世言 12月号

 「たましい」と向き合う

                 倫理研究所理事長 丸山 敏秋

 弊誌の発行元である社団法人倫理研究所は、九月から年度が改まる。今年
度は新たな基本方針として「たましいに響く実践・普及に挑む」を打ち出した。
 その「たましい」という言葉に、違和感を抱いた人もあったようだ。「心」ならば
わかるが、「たましい」となるとおどろおどろしくて非科学的なイメージが強い、
と言ってきた人もいた。
 そうかもしれない。「霊」とか「魂」とか「霊魂」と書くと、余計にそう思われるだ
ろう。だが、大和言葉の「たましい」は少し前までの日本人にとって、慣れ親し
んだ普通の言葉として使われていた。今でも「たましいを込めて」とか言うでは
ないか。
 辞書を引けばわかるように、「たましい」には大きく二つの意味がある。一つ
は、人の奥底に宿って心や生命のはたらきをつかさどる何かである。もう一つ
は、生まれる前にも死んだあとにも存在する自分の元である。両者は別々で
はなく、一体だと昔から考えられ、「たま」とも呼ばれてきた。
 「たましいに響く」とは、「心に響く」よりも強く訴える表現である。もちろん「た
ましい」の存在を前提としている。「たましい」が科学的に証明されないからと
いって、そんなものは存在しないと決めつけるのは独断に過ぎる。そもそも人
は何から成り立っているのだろう。
 
   もしそれ人とは  人のからだのことであると
   さういふならば誤りであるやうに
   さりとて人は
   からだと心といふならば
   これも誤りであるやうに
   さりとて人は心であるといふならば
   また誤りであるやうに
 
 これは宮澤賢治の〈月天子〉という作品の一節である。この天才は、人の中
に体と心だけでない別のあるもの、尊ぶべき何かを見出していた。それを「た
ましい」と明言はしていないけれども。


新世言   12月号 つづき

 みずからの内面を探

 
先祖を供養したり送迎する年中行事は、「たましい」の存在を抜きにし
ては成り立たない。近年の生命科学はDNAの遺伝情報を継承するこ
とで、先祖は自分の中に「生きている」ことを明らかにした。昔から人々
はそうした事実も直感的に捉えて、「たましい」を口にしてきたのであろう。
 もちろん、目に見えない「たましい」を道具にした霊感商法やオカルト
宗教がはびこるのはいただけない。死後の世界がどうだこうだと詮索(せ
んさく)しても、わからないものはわからない。この世の人生が一度しか
ないことに変わりはない。
 しかしまた物質的な次元でしか物事をとらえず、「たましい」が抜け落ち
てしまうと、人間生活は薄っぺらなものになってしまう。われわれは日々
の生活において、心の表層だけではない「たましい」に訴えるような言葉
や、「たましい」が震えるような感動を求めているのではないだろうか。
 「たましい」の存在を前提にするとき、人生は厚みも深みも増してくる。偉
大な自然科学者であり大詩人でもあったゲーテも、そうして自然界をみつ
め、思索を深め、膨大な作品を残した。次のようなゲーテの詩がある。

  人の魂(たま) そは水に似たるかな。 天より来たり 天にのぼり
  ふたたび下って 地上に帰り かく永遠に変転す。(中略)
  さてまた風は 波の恋夫(こいづま)、 風こそは 底ひより水をゆさぶる。
  人の魂、 そは水に似たるかな
  人の運命、 そは風に似たるかな。
         (「水の上の霊の歌」、『ゲーテ詩集』 手塚富雄訳)

 唯物論に立つ科学は素晴らしい発達を遂げた。しかし科学は,計量計測
できる対象しか扱えない。科学が教えてくれない生きることの意味や価値
は、個々人がみずからの内面を探って見出していくしかないのだ。
 そのときに「たましい」はリアルな存在として、はっきりと立ち現れるであ
ろう。偏見を排して、わが内なる「たましい」と真摯(しんし)に向き合う勇気
を持ちたい。


             倫理研究所理事長  
丸山 敏秋

 

             


新世言

 稲藁の教え

                 倫理研究所理事長  丸山 敏秋    


福島原発事故の放射能漏れによる被害は、いったいどれほど広がるの
か。いつまでつづくのか。
 今年の七月には福島県で、稲藁から高濃度の放射性セシウムが検出
された。昨年秋の収穫時から水田に放置され、三月の原発事故後に集
められた藁だったという。この稲藁を飼料とした牛の肉から、やはりセシ
ウムが検出され、大問題となった。被害は近隣県にまで及び、風評によ
ってさらに拡大した。
 福島県の被災者や被害者は、未来が見えないだけに一段と苦しみが大
きい。「うつくしま福島」の再生のために、全国からの支援とエールを途絶
えさせてはならない。
 ところで、牛肉からセシウムが検出された事件から、稲藁について再認
識させられた。牛の飼料に稲藁が使われていたことを知る人は少ないだろ
う。欧米的な都市生活が広がった今日、稲藁は身近から消えてしまった。
 稲の果実であるコメを日本人は主食としてきた。手間隙かけて稲を栽培
し、品種改良を重ねて、最高品質のコメを収穫してきた。日本民族の命を
支える稲とコメは信仰の対象となり、神に捧げる祭りの供物としてもコメは
欠かせない。
 コメを収穫したあとの大量の副産物が藁であり、活用範囲は広い。たとえ
ば、藁で布団を作って敷物にする(藁布団)。世界に類のない畳の中身にも、
乾燥させた稲藁を強く圧宿した素材(藁床)が使われてきた。これは大変な
発明で、藁床は適度な弾力を保ち、保湿性や空気浄化作用が抜群である。
 稲藁はまた蓑や靴や衣類の素材にもなる。家の屋根に使われ、土壁の
中にも塗り込められた。容器やホウキや俵や縄などにも加工され、燃料や
肥料にもなる。稲藁に宿る菌が蒸した大豆を発酵させれば、納豆という健
康食品ができあがる。
 かくも稲藁は農村生活を底支えしてきた。藁だけではなく、籾殻も通気性
のよい枕の材料になり、肥料としても使える。糠は肥料にも漬物用の床に
もなる。稲という植物には捨てるところがないのだ。



     


新世言     11月号 つづき

[ありがたい」「もったいない」の精神を

 何であろうと、自然界に存在するものすべてを恵みとして、最大限に活
用させていただくという精神が、これからは強く求められなければならな
い。言い換えれば、現代人の生活にはいかに無駄が多いか、ということ
である。大量のゴミが、そのこを如実に物語っている。「ゴミは泣いてい
る」と本誌の巻頭に丸山竹秋会長が書いたのは、二十二年ほど前のこ
とだ(1990年1月号)。

   [経済大国とは、ポイ捨て大国の別名か。また自然環境破壊大国
  の同名か。それらの元凶は、どこに?実践すべきことはいっぱいある。
  ゴミは泣いている」。

 縄文時代から貝塚があったように、人が生活するところにゴミは発生す
る。廃棄物が出るのはやむを得ない。問われなければならないのは次の
三点である。
 1、使えるだけ使いきって捨てたのか?
 2、捨てるものを別に利用できる可能性はないか?
 3、捨てるときにどういう態度をとるか?
 稲を例にとれば、コメだけを必要とする者にとって、藁は捨ててしまって
も不都合はない。しかし昔の人たちは1〜3を心得ていた。コメにだけ目を
奪われることなく、稲を全体として捉え、「ありがたい」「もったいない」と思
っていろいろな活用を考え出した。
 古くなった藁布団にしても、ポイ捨てはしなかった。 畑の肥料に使った
り、乾かして牛馬の飼料やカマドの燃料にしてきた。焼いたあとの藁灰ま
でも有効に使っていただろう。
 割れた茶碗の使い道はあまりないかもしれない。しかし昔の人はそれを
ポイ捨てしただろうか。捨てて地に還すときも、感謝の気持ちを添えて一礼
したのではないか。各地に伝わる針供養や人形供養のような「物の供養」
の風習からもそう思える。
 大量消費社会がこのままつづくはずはない。エネルギー対策は根本から
見直される事態となった。われわれのライフスタイルから先駆けて変えてい
こう。
 稲藁の教えを実践できる人にこそ、未来を拓く資格がある。

              新世言11月号  倫理研究所理事長 丸山 敏秋










新世言 10月号

 太陽のごとく                                      倫理研究所理事長   丸山 敏秋

 今年の四月下旬に、皇居のお堀端にある東京国立近代美術館に足を運ん
だ。「生誕百年 岡本太郎展」の会期終了が迫り、大勢の観客が押しかけて
いた。その半数以上が大学生のような若者たちである。数年前から岡本太郎
ガ若者たちの憧れの的となっていると聞いていたが、事実らしい。
 ギフトショップでは「太陽の塔」のミニチュアが売れに売れていた。二月末か
らはNHKドラマ「taroの塔」(全四回)も放映された(六月にも再放送)。岡本
の波乱万丈の人生を初めてドラマ化したものだ。
 かってテレビのバラエティー番組で岡本太郎を見た中高年には、「ズケズ
ケものを言うヘンなおじさん」という印象が強く残っているのではないか。しか
し、岡本は画家でありながら、パリで二十世紀の最先端の知識を身につけた
教養人であり、戦後の日本に彗星のごとく現れて芸術の革命を企て、「縄文」
の世界や日本の原像を発見した希代のマルチ」人間だった。
 1970年の日本万国博覧会(大阪万博)では総合プロデューサーを引き受
ける。しかし岡本は、先進諸国が技術や産業の発展を誇り合う万博に否定的
だった。大阪万博の「人類の発展と調和」というテーマも気に入らなかった。
だから、得体の知れない巨大で「ベラボー」な塔を製作し、万博会場の中心に
打ち立てたのだ。
 筆者が岡本太郎を意識したのは、かれこれ三十五年ほど前になる。以来、
その情熱やまなざしに惹(ひ)かれてきた。愚直なほだ「難きを選ぶ」という
生き方を貫いた岡本に対して、敬意を払ってきた。東京の府中市にある多磨
霊園の墓所にもよくお参りする。岡本のユニークな彫像作品が、自身と両親
の墓石となっている。
 だから、岡本太郎が現代の若者たちを魅了する理由(わけ)がわかる気が
する。ひとことで言えば、岡本が「純情」な人だからだろう。
 水のごとく自在で臨機応変、と同時に、火の燃え盛るごとく情熱をギラつか
せてチャレンジする。あんなマネはとてもできないし、才能も違う。 けれども
「太郎さんのように生きられたら・・・・」「あんな日本人がいたんだ・・・・」と若
者たちは心惹(ひ)かれるのだ。





新世言  10月号

 新世言  10月号つづき
純粋でひたむきな姿
 岡本は虚飾を嫌い、いつでも本音を語って行動した。周囲に妥協はしな
い。驚くべきことに、彼は自分の絵を売ろうとしなかった。芸術は常に大衆
のものであり、無償・無条件であるべきだという信念があったからだ。
 『芸術は太陽と同じだ。太陽は熱も光も、無限に与える。ひなたぼっこし
ても、”おい、あったかかったろう。じゃ、いくら寄越せ、なんて、手を差し出
したりしないだろう。?」
 以前、美術館に展示されていた岡本の絵が斬りつけられる事件が起き
た。周囲がアタフタする中で、悠然と彼は言った。
 「切られてなにが悪い!切られたらオレがつないでやる。それでいいだ
ろう。子供が彫刻に乗りたいといったら乗せてやれ。それでモゲたらオレ
がまたつけてやる。だから触らせてやれ。」
 利害損得ばかりが先行する世の中だからこそ、岡本のそうした姿勢が
新鮮に映る。若い頃にパリでピカソの絵に衝撃を受けて活路をひらいた
彼は、すぐさま決意したーー「ピカソを超えてやる」と。岡本太郎はひたす
ら前向きだった。
 世知に長(た)けた大人たちは、岡本の発言を大言壮語とバカにするか
もしれない。けれども若者たちは、永遠の子供のよいな彼の純粋でひたむ
きな姿に感動する。
 岡本太郎にはまた「思想」があった。だから絵画も彫刻も、文章も写真
も、どこを切り取っても作者の一貫した顔が現れ出てくる。それも若者には
大きな魅力だ。終始一貫せず、状況によってコロコロと意見を変え、場当
たり的に発言する大人たちを、彼らは多く見過ぎている。
 六千四百万人以上もの入場者があった大阪万博という世紀の祭典は、
終わるとすべての建造物が撤去された。ただ一つ「太陽の塔」だけを残し
て・・・・。岡本太郎の魂(たましい)は今もなお赫々(かくかく)と生き、塔
の上の金色の顔から、変わりゆく日本を見つめ、叱咤激励しつづけている
に違いない。
 それを受けとめる若者たちがいるかぎり。

          新世言10月号   倫理研究所理事長  丸山 敏秋





新世言

 「見えない脅威」に立ち向かう

                   倫理研究所理事長  丸山 敏秋          

  
三年ほど前から、人類が立ち向かう「見えない脅威(きょうい)」につい
て書いたり話したりしてきた。
 たとえば、新型インフルエンザである。WHO(世界保健機関)は、野鳥
や豚などのウイルスがいつ変異して感染が拡大するか警戒してきた。
二00九年四月にはメキシコで人への感染が確認され、六月にはフェーズ
6の世界的流行(パンデミック)となった。致死率の高い強毒性にまで変異
しなかったのは幸いだったが、鳥インフルエンザは日本でも毎年のように
猛威をふるっている。
 あるいは、お金も「見えない脅威」となる。二00八年九月にアメリカの投
資銀行りーマン・ブラザーズが破綻し、それが世界的な金融危機の引き
金となった。日経平均株価も大暴落を起こし、六千円にまで下落。その影
響は深刻で、政権交代の要因ともなった。
 お金はもともと実体がない。金や銀は貴金属としての値打ちがあるが、
紙幣は印刷された紙きれにすぎず、預金通帳には数字がならんでいるだ
けだ。その数字化されたお金を巧みに操作して巨利を得ようとする金融
工学が、世界を大混乱に陥れた。
 西暦二千年という新しいミレニアムを迎える前から、日本人の年間自殺
者は三万人を超えるようになった。原因を特定できない「うつ」が広がって
いる。得体のしれぬ「見えない脅威」が現代人の生きる力を蝕(むしば)み、
萎えさせているのだ。「無縁社会」という不気味な言葉まで流行るように
なった。
 そしてさらに、今年になって「原発震災」が発生した。
 予期せぬ大事故への対応は、あまりに杜撰(ずさん)だった。報告の内
容がコロコロ変わる。放射能被害については「ただちに健康に影響を及ぼ
す線量ではありません」と繰り返し報道された。長期的には被害が出る、
ということではないのか。被災した原発周辺の住民はもちろん、国民は不
安と不信感を募らせてきた。
 なにより驚愕(きょうがく)したのは、「原発は安全だ」という通念が脆(もろ)
くも崩れたことだ。われわれの認識が甘かった。ただなんとなく、安全だと
思い込んでいた。いつの間にか知らないうちに、地震列島に五十四基もの
原発が設置されてきたのだ。 

新世言


                      新世言9月号つづき             
 脱原発から自然再生エネルギーの開発を
 原発の大事故は、万が一にも起きてはならないことなのだ。世の中の大
事故のほとんどは、一過性で地域も被害者も限定される。しかし原子力事
故による大量の放射線漏れは永続的で、全地球的に影響が及ぶ。事態の
深刻さがまるで異なる。
 大地震の直後、原発が危険だと察知し、警告が出る前に避難した周辺
住民が少なからずいた。彼らの行動を早とちりだとか、過敏すぎるとわらう
のは間違っている。あとになって修正されたレベル7の原発事故は、首都
圏が壊滅するほどの最悪ケースになった可能性も高かったのだ。同様の
事態が、今後もどこでおこるかわからない。
 放射能はまさしく「見えない脅威」である。放射能の量は計測できても、
それが人体にどれほど悪影響を及ぼすのかよくわからない。専門家の見
解にも違いがある。一般国民は政府や専門家からの情報に頼るよりほか
ないが、そこにウソが混じっていたら、もう何をしんじたらよいのかわから
なくなる。
 地球の安泰を最高目標とする「地球倫理」の観点からすれば、原発の
推進は容認できない。そのことが大震災で明白のなった。もっと早くに気
づくべきだったが、今更過去には戻れない。
 厄介なことに、すでに半世紀に亘って稼動してきた原発を、すぐには全
廃できない。廃炉にすがるのも核燃料を処分するのも長い時間を要する。
安定的な電力は確保しなければならない。
 とにかく今後は、脱原発(卒原発)を方向として定め、電力の需要と供
給のバランスを調整しつつ、効率の高い自然再生エネルギーの開発を
急ぐべきである。その間は火力発電にも頼らなくてはならないだろう。原
発事故はすでに起き、放射能は外部に漏れ出てしまった。子供や若者の
被爆を最小限度に抑えつつ、放射能と共存していく覚悟も定めなむては
ならない。
大震災直後の「自分も何かしなければ」という心の底からの善意を忘れ
ずに行動しよう。どのような事態であろうと、責任の一端をみずから担お
うとする気概を保ちつづけよう。
 創造的な復興が必要なのは被災地だけではない。「見えない脅威」に
立ち向かう日本および日本人の全体に求められているにだ。


          倫理研究所理事長    丸山 敏秋 (新世9月号)

新世言

足るを知る
               倫理研究所理 
丸山 敏秋
                                                                          、    
 あれから、同じような場面を何度か夢にみた。
 大勢で必死に山の上へと這うように進んでいく、急勾配なので、なかな
かうまく登れない。自分の周りには老若男女、肌の色が違う人もいる。誰
も何も持っていない。身ひとつでひたすら上を目指す。苦しくなって目が覚
めるので、夢のつづきはない。
 大震災の津波の襲来を、繰り返し映像で見たからだろう。実際に大津波
の跡のすさまじい瓦礫(がれき)の原を歩いたからでもあろう。原発の放射
能漏れも、悪夢の背景にはある。
 やがてそうした夢もみなくなるだろう。時の経過は、痛みや悲しみを静か
に癒してくれる。とともに、大事な戒めを忘れさせる力も時は持っている。
 被災者ではない大多数の国民から、時とともに震災の記憶がやや薄れ
かけているのではないか。だとしたら、気をつけよう。記憶を風化させては
ならない。
 地球も太陽も活動期に入っている。大きな地震や災害が、今日にも明日
にも身近で起こる可能性はあるのだ。断じて警戒を緩めてはならない。
 大震災で強く思い知らされたのは、現代人が重度の「文明病」を患って
いることだった。豊富な生活物資や機器に囲まれ、いつでも自由に移動で
き、簡単に情報を交換できる。それを「あたりまえ」と気にもかけないのが
文明病である。「あたりまえ」がいかにスゴイことかを皆が思い知ったのは、
つい先日のことだ。あれから、自分のライフスタイルが何か一つでも変わっ
ただろうか。災害に対する備えにぬかりはないだろうか。

       

新世言

 新たな国づくりへ

 文明病の根本にあるのは「楽の追及」という願望だろう。
 第一のそれは、安楽の追求である。すなわち「楽をしたい」と言う思い
だ。きつい仕事はやりたくない、面倒な事には関わりたくない・・・・・。
次々に市場に出まわる家電製品は、どれも人間に安楽を与えるために
開発されたものである。
 第二は、快楽の追求である。美味しいものを食べる、よい服を着る、面
白い番組を観る、好きな趣味に興じる・・・・。世に楽しみは多い。そして
快楽願望には際限がない。
 安楽と快楽を追い求めると、なかなか叶えられないことに苛立ち、スト
レスがたまる。健康を損なうようにもなる。長寿村の人々の生活ぶりを
調べればすぐにわかることだ。村人は粗食にして質素、早寝早起きし
て勤労に励み、多くを得ようと思わない。都市に暮らす現代人とはまる
で逆なのだ。
 沖縄県に長寿で有名な、大宜味村(おおぎみそん)がある。そこは県
内市町村の中で村民所得がいちばん低い。なのに筆頭の長寿村なの
は、村民はほぼ自給自足で、自然の恵みに感謝し、食べ過ぎることは
ないからだという。人の体は大昔からそう変わっていないことを、われわ
れは忘れてしまっている。飽食と運動不足は体によくないばかりか、感
性や直観力を衰えさせる。
 都市生活で電力を節減してみて、さほど支障がないことを、震災を機
に多くの人たちが知った。あれは貴重な経験だった。過剰に電力を消費
してまでも「楽」を求めようとすつのは、人の倫理(みち)に反している。
文明生活では、無意識のうちにエネルギーを消費させられている面が
あるから用心したい。水も、食料も同様である。
 日本のエネルギー政策は根底からの見直しが始まった。防災対策も、
災害に強い街づくりも、これからさらに促進される。学校での防災教育
も強化されるであろう。国民の側も意識を高めて、積極的に協力してい
こう。それが新たな国づくりとなる。
 大震災がまたいつ起こるかと、ビクビクする必要はない。「備えあれば
憂いなし」である。この格言を知ってはいても、実行できているかどうか。
 他からの援助がなくても二週間は生きられるよう、食料や水や燃料を
各家庭で備えたい。いざという時にどこえ避難し、どう連絡を取り合うか
を、家族で話し合っておこう。「(災害が)いつ起きても不思議ではない」
と覚悟も定めよう。いざという時に頼るのは直観(直感)である。気づいた
らすぐする「即行」の実践を通して、直観力を磨いておこう。
 そうした物と行動と心の面での備えは、変動の多い現代を生きる上で
の大切なマナーでありモラルである。

            新世言・8月号
                      倫理研究所理事長 丸山 敏秋  



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